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耐熱衝撃性セラミックスの変遷

 ”技術史的”に見れば、私は「今」に存在していて幸運だったと言うべきかもしれない。何故なら、まだまだ完成されているとは言い難いけれども、低膨張セラミックスというモノがあり、それを利用できる環境があったのだから。  先にも述べたように土鍋の起源は土器の起源そのものでもあり、それは当然セラミックスの起源でもある。1万6000年前に始まったというセラミックスの歴史は、世界各国で様々な要因により千差万別の形態で進化を遂げてきた。

 窯が進化する以前に使用されていた原初の土鍋は、野焼き(オープンピット)によって焼成されている。それは必然的に低火度焼成となり、未焼結の素地は多孔質で吸水性に富み、硬質ではなかった。そのため直火での使用に耐え、調理器具として使用することが可能だったと考えられる。但しこの土鍋が現在作られている土鍋と同様のモノだったかというと、それは全く別物だった。過剰な吸水性によって、煮炊きの効率は良くなかっただろうし、また耐熱性も優れているとは言えなかった筈だ。熱源は焚火であったろうから、それほど急激で強い温度変化に曝されることは無かったかもしれないが、それでも暫く使ったらひび割れて別の物と取り換えるという事を繰り返していたと推測できる。そしてこの原始的な土鍋は、時を経て窯の構造が改良され、より高温で釉薬を掛けて焼成される等の進化はするものの、その基本的な性質を変えることなく1万数千年に亘って使われてきたと考えられる。

 1770年にギオゲットが最初にコーディエライトセラミックスを作り、1929年にシンガーとコーンが低熱膨張のコーディエライトセラミックスを作った。ここに初めて優れた耐熱衝撃性を備えたセラミックスが出現したということになる。だからそれ以前に作られたすべての土鍋は、必然的に前述の原始的な土鍋の範疇に入ると考えられる。その後、コーディエライトセラミックスは工業分野で広く使用される素材となり、現在も自動車やストーブの排気ガス触媒のハニカムセラミックス等に使われている。そしてこの素材は、その後リチア素地が出現するまで、土鍋や耐熱食器の主流にもなった。

 1948年アメリカのハンメルはペタライト質素地の低膨張性を発見し、また、ロイとオズボーンは1949年にリチウムを使用して低膨張素地が得られることを考えた。ここにリチア素地が発明され、コーディエライトセラミックスよりも更に低膨張のセラミックスが誕生した。そして現在はその低膨張素地を利用できる環境が個人にも開かれている。そんなことで、私もその恩恵にあずかることが出来たという現実が一方にある。

 より広い視野で見れば、耐熱衝撃性セラミックスは上述の物だけではない。機能性セラミックスやファインセラミックスの中にもその性質を備えた物がある。例えばチタン酸アルミニウムや窒化ケイ素などがその主な物だ。けれどもこれらの素材が土鍋に使用されることは通常無いので、これらについては又別の機会に書ければ、と思っている。

 


 

ほっち土鍋の位置

  焼き物を作っている私が鍋を作るならば、まずは土鍋を作るということになる。ステンレスや鋳鉄の鍋を作ることは、とりあえず今、私にはできない。以前、いわゆる“自然食系”の料理教室に通っていた妻が、そこではすべての調理が土鍋で行なわれているということ、またその教室の先生の一人は自宅でも土鍋しか使わないということを私に教えてくれた。日々の料理に土鍋しか使わないという人がいる事を知り、私は少なからず驚いた。そして「土鍋を作ってほしい」と妻から頼まれた私は、その言葉を受けて、日常使いに適した土鍋を作ることを決めた。「毎日使うには、いま出回っている土鍋では不便だろう」と私には思われた。

 鍋料理用の土鍋には形の類似性がある。その形には歴史があり意味があるのだろう。例えば金属よりも衝撃に弱いから厚く作る、硬い物に強く当てれば欠けやすいから持ち手はあまり出っ張らせない、制作に無理がなく、具材が見やすくて取り出しやすいように全体を浅くする、熱が均等に回り、熱膨張差による破損が起きにくいように底には丸みを持たせる、といった感じだろうか。

 けれども私は敢えて別の方向を選んだ。それを日常使いの為の道具として捉え、その為の利便性を第一に措定すれば、そこには別の”理”が在るのではないのか・・・。「それを探って形にしてみたい」と私は思った。土鍋を作るということについて、まずは、それ以外に自分のやるべき事があるとは私には思えなかった。

 さて然しこれまで書いてきたことは、凡そ土鍋というモノに対する一般的な概念の中での話だ。  それでは私が作っている土鍋は今まで述べてきた鍋料理用の土鍋と同じモノなのかと言うと、「同じではない」と言わざるを得ない。何故ならそれは、食卓で使う土鍋ではなく、キッチンで使う調理道具としての土鍋なのだから。別の言い方をすれば、それは鍋料理用の土鍋とは使用方法が異なる土鍋であり、またキッチンで使う日常使い用の(金属)鍋とは素材が異なる鍋(土鍋)だということになる。それは、“鍋料理用の土鍋”の概念では捉えきれない性質を含んでおり、また、日常使いの金属製鍋の概念で捉えることも出来ない性質を持っていると言えるだろう。

 


 

食卓での土鍋

 なぜそこで土鍋が使われているのかということを、より明確に知るには、歴史を知る必要があるだろう。文化史的に見れば時どきの社会構造や生活様式による起源と変遷が土鍋にも当然あると思われる。“食卓での土鍋料理”という現在の形態は、その様々な変化の中で発生し、生き残ってきたものだろう。けれどもそれを語るということは、土鍋のみならず、鍋料理、ひいては食文化全般の歴史を語るという事にほかならず、今の私にその知見は到底ない。またこの文も食文化を語る目的で書いているのではない。そのことについては他の優れた文献等を参照していただくとして、私なりに話を進めたい。

 なぜそこで土鍋が使われているのかについては、いろいろな考え方ができると思うが、敢えて言わせてもらうならばその理由の一つは、やはり土鍋料理が美味しいという認識があるからだと思う。食卓で鍋料理を食べながら、その場が楽しく、その料理が美味しくて、「鍋料理っていいなぁ」と思ったとすれば、その人はその歴史をまさに体現しているのであり、その変遷の知識など無くても、“鍋料理と鍋料理用の土鍋とそれを取り巻くさまざま”を理解している筈だ。

 また更に言えば、キッチンではなく食卓で食器と一緒に並べ置かれて使用される土鍋を、食器として認識する心理が働いている、という考え方があることも否めないだろう。食器もまた様々な変遷を経て今に至っており、いくつもの素材が使われている現在だが、最も多く使われているのが陶磁器だという事に異論は無いとすれば食卓で使われる鍋料理用の鍋の素材は金属ではなく陶磁器、つまり“土鍋”が最も多いということにもなる。  とはいえ、「土鍋を食器として認識する」という類の心理は、そのモノ(土鍋)を思い浮かべる側のイメージと、そのモノ(土鍋)が備えている性質によって限定され、全ての人と土鍋に及ぶものではないだろう。

 

 


 

土鍋の起源と金属鍋

 言うまでもないが鍋の殆んどは金属製だ。鉄・ステンレス・アルミ・アルマイト・銅・その他や合金だったりするが、とにかく鍋と云えば金属だ。それが冬の夜に食卓で囲む鍋料理用の土鍋ではなく、キッチンで使う日常使いの鍋ならば、尚のこと金属ということになる。それは使用頻度が高く、それだけに様々な状況で使用されることに対する当然の帰結だろう。

 けれども歴史をひも解いてみれば土鍋の起源はそもそも金属の発生以前に溯ってしまう。地球上に土器が発生したのは約1万6000年前と云われており、しかもその始まりは土鍋だったという説もある。そして時を経て、銅・青銅・鉄等の金属が使用されるようになると、適材適所の当然の帰結として鍋は金属で作られるようになり、それはそのまま現在へと続いている。

 食卓での鍋料理に使われる土鍋は、そんな歴史の中で生き残ってきた土鍋の“最後の砦”と云ってもいいのかもしれない。これだけの時を経て文明が進化し、高品質な金属製の鍋が多く出回っている現在であるにもかかわらず、そこで土鍋は使われ続けている。あらためて考えてみると、この事実に驚きを禁じ得ない。

 


 

HOTCH-楽しむ陶磁-Ⅱ 

 素材、すなわち粘土というものが「形を作るための物」としてすでに存在し、それをどのように組み立ててゆくのか、ということのみが課題であるならば、ことはある意味では単純に考えられるのでしょう。けれどもオリジナルの耐熱素地で機能的な鍋を作ると決めてしまったばかりに、その素材をも一から作らねばならなくなり、果てしなく続く鉱物の調合・実験・試験・検証や、素材と形の改良の毎日に何年も明け暮れるという、或る種の奈落のような場所に入り込んでしまった私は、様々なデータや理想主義の妄想から生まれた考えに手や足を絡めすくい取られ、どうしてもそこから抜け出すことが叶わないといった状況に陥っていました。耐熱陶磁鍋を作り始めて10年になりますが、以上のような状態は未だに終わったわけではなく、最近になってようやく終息に向かいはじめたというのが実感です。
 昨年の12月初めにギャラリーオーナーと今回の企画の打ち合わせをし、その折に、「作りたいものを作ってくれ」という意味の言葉をかけていただきました。その言葉をきっかけに『幻視』や『螺旋と記憶』などの作品を制作することができたわけですが、この言葉は、上記の閉塞状況に陥っていた私にとっては、ふと気が付くと自分の傍らにどこからともなく下げられた蜘蛛の糸が近づき、その糸を伝わって登ってゆくと、それまで自分が居た場所が遥か足下に見えるようになり、やっとのことで暗くて高い塀の外側が見える場所にまで登りついた、というような状況を作り出してくれたと云えます。無論、上記の閉塞状況が終息しつつある時期だからこそ次の段階に進むことが可能だったわけではありますが、先の言葉とこの場が無ければ、おそらく未だに私は或る種の奈落の底で苦闘し続けていたことでしょう。
 たどり着いたこの新たな場所での仕事は始まったばかりですが、それでもようやく僅かだけでも別の領域に手をかけることが出来たことに、ささやかな喜びをかみしめています。(2013年2月 ぎゃらりーFROMまえばし「HOTCH  楽しむ陶磁」展Ⅱ 挨拶文より抜粋)