私の生活域である群馬県桐生市、伊勢崎市近郊で、春の野菜の筆頭に挙げられるのは「かき菜」だ。花芽を食べるアブラナ科の野菜は各地で栽培されていると思うが、地域によって異なる品種が栽培されていることが多いようで、先日テレビで見た千葉県のそれは葉の形が当地域のそれと異なっているように見えた。また、20数年前に東京の国分寺市恋ヶ窪公民会主催の「有機肥料で野菜を育てる講座」に参加して私が栽培したのは「のらぼう菜」だった。
この「有機肥料で野菜を育てる講座」は水曜日に開催されていたので、当時、正社員ではなかったけれども自動車関係の会社で働いていた私は、毎週水曜日に会社を休んで参加したのだった。もともとの薄給に加え、有給も使えない状況で、休んだ分はしっかりと差し引かれる俸給を承知の上で参加を決めたのだが、今考えてみると本当に参加してよかったと思う。それは明峰哲夫さんとの出会いがあったからだ。その講座で、数回に亘って講義を担当し、そのうちの一回は、自らが耕す畑を見学させてくれたのが明峰さんだった。
明峰さんの講義が終了してしばらくの後、その著書『ぼく達は、なぜ街で耕すか』を読み、アポなしで畑まで明峰さんに会いに行ったことがある。偶然にも畑で仕事中だった明峰さんは、突然の訪問にもかかわらず、暫し時間を割いてくれて、差し出した自著にメッセージも添えて下さった。その時の対話の中で、忘れられない言葉がある。自分たちで畑に掘ったという井戸の話をしながらやかんを手にして、その水で作った麦茶を湯飲みに注いでくれた明峰さんは、「この水は、飲み水には勧められないと保健所に言われたんですが、」と言葉を切った後、「私はこれを飲んでいます。」と静かに云ったのだった。『ぼく達は、なぜ街で耕すか』の中に一貫する、或る種の「覚悟」のようなものを私に感じさせたその言葉は、明峰さんの人間性を端的に物語る言葉そのものだったのだと思う。
植物関係のもの作り(ガーデンコンテナ作り)から別の分野(耐熱衝撃性セラミックス)の物作りへと分け入った私と、農業生物学者である明峰さんとの間に、その後、接点は無く、お目にかかる機会を再び持ちたいと漠然と思いながらも、それも叶わず、明峰さんが2014年に亡くなられたということを、以前、或る記事で知った。
東京在住の両親が月に2回ほど群馬に来て数日を畑仕事に費やし、これまで我が家の畑は回ってきた。それがこのところの新型コロナウィルスによる騒ぎで生活が変わり、両親の群馬来訪が大幅に減り、畑の全てを私が行うことになった。そんなことで再び畑仕事に主体的に関わり始めたこのところの私は、明峰さんの本に大豆の育て方が書いてあったな、と思い出し、『ぼく達は、なぜ街で耕すか』を紐解いて、表紙裏に書かれた明峰さんからのメッセージを久し振りに目にしたのだった。そしてそこにはこう書かれている。
新しい試みが成功されることを!
それは、会社を辞めて結婚した当時の私が取り組もうとしていた、ガーデンコンテナを利用した植物の栽培に関連する実験に対しての明峰さんの言葉だった。けれども私には、このメッセージが現在の私に向けて書かれたかのようにも感じられたのだった。
その畑でのわずかな時間以外に、明峰さんと私との間に個人的な付き合いは無かったけれども、何度も読み返した『ぼく達は、なぜ街で耕すか』とそのメッセージは、その後の私の生き方に大きな影響を及ぼしていたということが、今はっきりと分かる。