素材、すなわち粘土というものが「形を作るための物」としてすでに存在し、それをどのように組み立ててゆくのか、ということのみが課題であるならば、ことはある意味では単純に考えられるのでしょう。けれどもオリジナルの耐熱素地で機能的な鍋を作ると決めてしまったばかりに、その素材をも一から作らねばならなくなり、果てしなく続く鉱物の調合・実験・試験・検証や、素材と形の改良の毎日に何年も明け暮れるという、或る種の奈落のような場所に入り込んでしまった私は、様々なデータや理想主義の妄想から生まれた考えに手や足を絡めすくい取られ、どうしてもそこから抜け出すことが叶わないといった状況に陥っていました。耐熱陶磁鍋を作り始めて10年になりますが、以上のような状態は未だに終わったわけではなく、最近になってようやく終息に向かいはじめたというのが実感です。
昨年の12月初めにギャラリーオーナーと今回の企画の打ち合わせをし、その折に、「作りたいものを作ってくれ」という意味の言葉をかけていただきました。その言葉をきっかけに『幻視』や『螺旋と記憶』などの作品を制作することができたわけですが、この言葉は、上記の閉塞状況に陥っていた私にとっては、ふと気が付くと自分の傍らにどこからともなく下げられた蜘蛛の糸が近づき、その糸を伝わって登ってゆくと、それまで自分が居た場所が遥か足下に見えるようになり、やっとのことで暗くて高い塀の外側が見える場所にまで登りついた、というような状況を作り出してくれたと云えます。無論、上記の閉塞状況が終息しつつある時期だからこそ次の段階に進むことが可能だったわけではありますが、先の言葉とこの場が無ければ、おそらく未だに私は或る種の奈落の底で苦闘し続けていたことでしょう。
たどり着いたこの新たな場所での仕事は始まったばかりですが、それでもようやく僅かだけでも別の領域に手をかけることが出来たことに、ささやかな喜びをかみしめています。(2013年2月 ぎゃらりーFROMまえばし「HOTCH 楽しむ陶磁」展Ⅱ 挨拶文より抜粋)
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「植物と植物を植える器」展
植木鉢の実験的アプローチ
私が植物と鉢植えについて思っていることは、「植物は自ら生きる」というあたりまえのことです。 西洋の一般的なガーデニングの概念では、鉢植えは、植物をそれぞれの目的に応じて最大の効率で成長させるということに主眼を置いて捉えられていると思います。そこでは、植物の種類や性質に応じて、鉢の形状や大きさ・培養土と肥料の性質・管理の方法・等を総合的に判断して栽培プロセスを組み立ててゆきます。ですからそのプロセスは極めて分析的で科学的なものです。
けれども、ひとたび目を外に向けて道端や野山で自生している植物を観察してみれば、自然の営みが人間の想像力を遥かに超えたところで動いていることは明確で、いかに不適で過酷な環境に自らが芽生えてしまったとしても、植物は、自ら生を得たその場所を変えることはできず、又、そこで自らの生を潔く全うしています。
数年前にあらためてこのことを再認識してから、私の意識の底には常にこの逞しい植物の姿が存在し続け、折にふれ様々な場面で意識の表層に浮かび上がってきたりしていました。科学的な栽培プロセスという限定された概念の中でのみ植木鉢を制作しなければならないということに息苦しさを覚え始めていた私の中に、そんな或る時、あるイメージが忽然と閃きました。「それならば器というものに限定される必要はないではないか」と。 ここから今回の実験的なアプローチは始まりました。
西洋的な視点からのみ園芸を捉えていたそれまでの私に、偶然にもそのころ一つの出会いがありました。それは、日本の園芸の重要な流れを占める盆栽の世界ではごくありふれたことなのですが、陶板の上に植物を植える栽培方法との出会いです。器の水抜き穴から水を抜くという栽培概念にとらわれていた私は、器から水を抜かないという栽培に非常に強い驚きを覚えました。無論、ハイドロカルチャーの存在は私も知っていますが、この陶板植えという方法は、ハイドロカルチャーとは根本的な考え方が全く違っています。根毛と培養土の性質とイオン交換作用までをも分析するという優れた科学的手法であるハイドロカルチャーに対して、陶板植えの方法は、一見、拍子抜けする程あっけなくその問題を乗り越えてしまっています。又、さらに最近もう一つの出会いがありました。それは「根洗い」との出会いでした。これも盆栽の世界ではありふれた栽培方法ですが、この根洗いに於いては、ついに鉢は消失してしまっているのです。
盆栽の世界の幅広さというよりも、日本的精神の神髄をそこに見たように思い、私は感動しました。そして無性に嬉しくなりました。この不完全な完全さとでも云いたくなるような性質を持った「陶板植え」という方法と、器という概念を超越した「根洗い」という方法、さらにはそれらと同一線上にある「苔玉」という方法は、日本人の自然に対する或る特徴的な世界観を反映しているように思えてなりません。そしてその概念に共感できる自分を自身が発見してゆく過程は、同時に又、植木鉢に対して私がそれまで抱いていた概念の私自身の中での崩壊と、新たな概念の萌芽を実感させてくれる過程でもありました。
確かに植物はそこにみずから生きているのです。これで私は「植木鉢」という概念から、より自由になれる。 これが私の出した結論です。そのため、今回の展覧会での一部の作品は甚だ実験的要素の強いものとなりました。人為と自然の妙。けれどもそれらは所詮わたしの無邪気な実験です。そして今回は、パートナー石川治子さんのお力をお借りして、かろうじて形あるものにできたことを喜んでいます。(2006年 モギギャラリー 石川治子/堀地幸次「植物と植物を植える器」展 挨拶文より)