夜が明けたばかりの気配の中、畑と田んぼに囲まれた細い道を軽トラックでゆっくり進んでいると、道路を横切るように歩いている動物の姿が前方に見えました。少し距離があったので、はっきりとは分かりませんでしたが、瞬間的に、「ネコかな」と感じました。少し進むと、親らしい一匹の後を、子供らしい小さな2匹が付いて歩いているのが分かりました。「子猫が見られる」と嬉しさがこみ上げて、ワクワクしながら静かに車を進めました。
近づいてゆくと、その3匹は向きを変えて、もと来た側とは反対側の畑の中に姿を消しました。さらに近づいて、その動物が入って行ったと思われる、畑と畑のあいだに続く境界にさしかかって車を止め、その奥を見た私の目に入ってきたのは、猫ではなくて、小さな狐(きつね)の姿でした。立ち止まってこちらを振り返るようにまっすぐに見ている2匹の子狐の瞳。その先には、やはり立ち止まってこちらを見ている、(おそらくは)親狐の姿がありました。2匹の子ぎつねの瞳。
その子ぎつねと目を合わせたとき、後悔の念がこみ上げてきました。認識が一瞬で覆りました。その瞳は美しく澄んでいました。言葉では言い尽くせないほどに。
かわいい
そう思いました。好奇心と少しの不安に彩られ、けれどもけっして予断を持たない眼。この瞬間、私は完全にこの子ぎつねの瞳に吸い込まれていました。
この狐が
この子ぎつね が
その存在が
害獣なのか
この可憐な 濁りのない つぶらな瞳が
罠にかかれば 殺されるのか
この命は生きてはいけないのか
そんなことがあるわけがない
そう思いました。いや、実際には言葉になってはいませんでした。そんなふうに感じたのです。
同じ命 同じ子供
猫は殺さない でも狐は殺される
人の命 子供の命 人の子供
犬 子犬
猫 子猫
人の都合
それが間違っているとは言いません。けれどもそれが正しいとも言いません。ただ、いろいろな想いや事情が広がり交錯するこの現実の中で、本当に大切なものを、あの瞳は写していたのだと感じます。
言葉の外に
言いあらわせない領域に
現実はある
ことばの外で
ことばを超えたところで
ことばが消えるところで
人の目がただ現実を映し出すその刹那
言葉が静かになり
少なくなり
とびとびになり
消え入りそうになり
消えるところ
消えたところ
その刹那
で
生きたい
生きる
自然と人為のあわい、人の領域で生きる野生の姿。その姿は、力強くてはかない。大自然を背景に生きる狐とは異なる環境に生まれて生きる狐の姿がそこにありました。
食べ物はあるだろうか
どんなものを食べているだろうか
親狐にしてみれば
子狐が飢えないように食べさせてあげたいことだろう
親心
それは 人間でなくても同じだろう
けれども この狐の親子に 人間はどう接しているだろう
自戒の想いが立ちのぼります。狐に対して罠をかけたことがありました。その罠に狐がかからなくてよかった。今はそう思います。
そんなことがあった頃、飼育しているニワトリが1羽亡くなりました。そのとき何故か、このニワトリを食べようという思いになり、お湯を沸かす準備を始めたのですが、不意に狐のことを思い出しました。このニワトリの亡骸をあの狐の親子にあげたいと思いました。場所が離れているのでそれは実際にはかないません。けれどもこの近くにも狐はいます。畑には狐の物と思われる糞がされていることが今もあります。そんなことで、夕方、木の陰に鳥の亡骸を置きました。・・・翌日の朝、確認すると、亡骸はなくなっていました。
よかった 狐が来たんだ
この亡骸を持っていった狐にも 子供がいるかもしれない
食べることが出来ただろうか
鶏もこの地で明日に繋がって生きることになる
狐のからだのなかで ひとつのいのちとして
人間と野生動物との関係について考えると、いつも迷宮に入ってしまいます。話は単純で、人間が勝手なことをしていることに疑いはないと思っています。動物も勝手に生きている。それも事実だと感じます。けれどもこの関係性の在り方が優しくて美しいとは思えません。そう考えると、心の底から楽しいということも、もしかしたら私たちはまだ知らないのかもしれません。ふとそんな思いもよぎります。 あの瞳にまみえたときの気持ちを忘れることはないでしょう。

